bac06e7e No.4771
世の中の人間は、みんな重大な嘘の中に生きている。
それを知っているのは、世界でただ二人だけだ。
「——ふぅ。今日の講義、地味に長かったな……」
夕暮れ時のホーム。秋の風が少しだけ肌寒く、俺は着古したジーンズのポケットに両手を突っ込んだ。
上着を脱ぐと、身にまとっているのは体にフィットした黒のノースリーブTシャツ一枚。
露出した腕には、一般の女子大生にはあるはずもない、鍛え抜かれたしなやかな筋肉と、退魔の修行で刻まれたかすかな古傷が浮き出ている。
そう——俺は今、誰から見ても「クールでスタイリッシュな女子大生」だ。
大学の友人たちも、俺を昔から「女子」として疑わずに接してくる。
アルバムの写真も、公的な書類も、すべて俺が最初から女であったと証明している。
だが、俺の記憶は違う。
俺は二十年前、男としてこの世に生まれた。
しかし、我が家に代々伝わる「古き先祖と大妖との契約」により、十六歳を迎えたその日、俺は『巫女』としての神力を得るため、身体も、存在そのものも男から女へと変貌したのだ。
世界線が書き換わるように、周りの記憶は「俺は最初から女だった」と上書きされた。
高校の同級生も、親戚も、誰も「昔の俺(男)」を覚えていない。
ただ一人——母親を除いては。
『当たり前じゃない。だって、お母さんも昔は男だったんだから』
初めて性別が変わったあの日、混乱する俺の頭を優しく撫でながら、母さんは微笑んでそう言った。
母さんもまた、十六歳の時に契約によって男から女へと変わり、やがて父さんと出会い、俺を産んだ。
世界中でただ一人、母さんだけが「男だった俺」の記憶をそのまま保持し、理解してくれていた。
二十歳になった今、俺は昼間はこうして大学に通い、夜は母さんから叩き込まれた陰陽術と退魔の技で、街の闇に潜む怪異を祓う一流の退魔師として生きている。
「……さて、今夜の依頼は西新宿の地下街だったか」
指先に少しだけ霊力を込め、黒のノースリーブの裾をキュッと整える。
ガタンゴトン、と遠くからホームへ滑り込んでくる電車の効果音が、黄昏時の空に響き渡った。
俺が男だった証拠は、もうこの世界のどこにもない。
母さんの記憶の中と、この胸の奥にある小さなくすぶりだけだ。
「行くか……『巫女』の仕事の時間だ」
迫り来る電車のライトが、夕闇に染まる俺の影を長く、美しく伸ばしていった。